歴史的に大革命といえば何を指すだろう。フランス革命、ロシア革命、あるいは産業革命。

市民による共和制政治、労働者農民による国家運営、蒸気機関による大量生産など、いずれもそれ以前の人類が予想もしなかったしくみや体制が始められた点で大きな転換であり「大革命」の名に値する。

実は今現在、われわれはそれらに匹敵する「大革命」を静かに経験しつつあるのではないか。社会の方向性の革命、社会的価値観の革命とでも言おうか。

 

 近年、各国各地域で人間の生活の質をはかる基準が見直されている。

最近マスコミでもてはやされたのはブータンの「国民総幸福量」(Gross National Happiness)

生活水準だけでなく、健康、生態系の多様性、コミュニティの活発さなどを含めた満足度をはかるものである。

経済的には世界最貧国と言われるブータン国民の9割以上が幸福と感じていることに、豊かであるはず多くの先進国の人々が驚いた。

OECD(経済開発協力機構)が「よりよい生活指標」(Better Life Index)を発表したのは2011年。収入と雇用のような経済指標と並んで、住宅保有および保有に関わる負担率、コミュニティへの関わり、環境や安全、仕事と余暇のバランスなどといった要素も生活の質を左右する重要ものとされる。ちなみにこの指標によれば15%近くの人々が同僚や友人と楽しく時を過ごすことが全くかほとんどない、という日本の状況が国際社会から驚きをもって受け取られた。

 

 国際環境NGO 「地球の友」(Friend of Earth)は「地球幸福指数」(Happy Planet Index)を提唱している(原案はNew Economics Foundation)。生活への満足度と自然とのバランスを指標のベースとしている。

現在の経済レベルを実現するためにどれほど環境を犠牲にしているのかをはかろうとするものである。例えば経済的に最も豊かであるとされる米国はこの指標によれば150位、経済規模3位の日本は95位までさがる。経済的豊かさがどれほど環境への負荷の下に保たれているかが分かる。

 

 日本民主党政府は「新成長戦略」(H22年閣議決定)に基づき内閣府経済社会総合研究所をして、幸福度・幸福指数の研究を進めしめている。

ノーベル経済学者スティグリッツとアマルティヤ・センも関わったフランス「サルコジ報告」は、従来軽視された幸福への視点をどう指標化するのかについて問題提起をしている(スティグリッツ、センほか『暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案』金融財政事情研究会2012)。 

   

 このようにここ数年、何が豊かなのか、どういった条件が人間にとって快適なのかを問い直す議論が立て続けに発表されている。

これは何を意味するのか。一言でいえば、経済的に豊かであれば人間は幸せだ、物質的に恵まれれば人間は満足するという発想が終焉しつつあることではなかろうか。

経済成長に対する疑念、資源浪費型生産による環境破壊、自由化のもたらした格差拡大、高度産業化による家族・コミュニティの崩壊などなどに対する不安と危惧への裏返しである。

経済一辺倒から、環境、安心、安定といった社会的要素を重視する視点への価値観転換である。

 

 人間はまず喰っていかなければならない。従って経済生産活動は重要である。

その上で人間は自分が欲するものを手に入れるために様々な工夫をし、行動をしてきた。

問題は人間が「欲するもの」が何かということにある。

これまでは新技術によって生産されるモノと便利さが「欲するもの」とされ、それ以外のものが切り捨てられてきた。

自然環境然り、人とのつながり然り、家族関係然り、生活上の安心感然り、…。

ところが、あり余るモノを手に入れ、人間の能力を退化させるほどの便利さを手に入れた先進国の人間が、ふと周りを見渡してみると全く楽しくも安心も出来ない社会になっている…、と最近になって危機感を覚え始めたということであろう。

自然への負荷や社会の歪みに目をつむりながら物質的豊かさ実現に邁進するという産業革命来追求してきた考え方を反省しつつ、人間の「欲するもの」が何なのかをもう一度問い直し、人々が満足しうる社会を目指そうという話になって来たのだ。

そもそも「欲するもの」のほとんどは個々人の根源的な欲求をこえたところで、社会的に作られてきたものでしたかない。

人間は見たこともないものを手に入れたい、欲しいとは思わないものである。

人間の欲するモノは大量生産と大量消費によって満たされるはずであるとされてきた200年来の価値観、およびそれに基づく生産・社会システムそのものが方向転換をしようとしているのである。まさに「大革命」の一歩を踏み出したのではあるまいか。

 

 ちょっと斜めな見方をすれば、人間の満足や幸福をとにかく数値化し可視化する方法、さらにははじき出された数値で各社会のランク付けをして競争をあおろうという魂胆においては、どの指標も旧態依然かもしれない。

必然、アメリカはブラジルより豊かだとか、ブータンは日本より幸福だという話になる。

そもそも競争とはある一つの尺度を共有する、強要させられることによって初めて成り立つ。

本来大切なのは、尺度を1本化することではなく、評価の基準をいくつも設けることであろう。

しかし、人類知的発達史の現段階においては数値化と競争の要素を入れ込むことでどうやら思考が進むらしい。「許容できる1本」を獲得することが現実的なのかもしれない。

 

 さあ、この「大革命」でどんな要素を新しい指標に組み込んでいったらいいだろう。 

 

2012.10