「貧困を博物館へ」とはうまい呼びかけである。グラミーンバンク(マイクロファイナンス)創設者ユヌス氏の表現だ。貧困問題解決は人類共通の課題である。ところが悩ましいことに「貧困」をどのように捉えたらよいかはそれほど単純ではない。

 英誌The Economist6月1日号は巻頭記事で「貧困」をとりあげた。国連ミレニアム目標MDGsの最終年2015年を目前にして、これまでの実績を振り返り「ポスト2015」を展望するものである。まずは1990年から2010年までの貧困削減の実績を褒め称える。11.25ドルの国際的貧困基準を下回る「極貧層」が世界人口の43%から21%にまで減った。ほぼ10億人が貧困から脱したこととなる。「これは資本主義と自由貿易のもたらした功績だ」と断ずるところにThe Economistらしい論調が表れている。その主張に同意するかどうかは別にしても、状況改善の背景にここ20年の途上諸国の経済成長があることは確かだろう。

 ただThe Economistも「自由化万歳!」などと単純な主張をしているわけではない。世界銀行顧問研究者のラバリオン氏を引きながら、より平等な社会ほど経済成長が貧困削減につながりやすいことを指摘している。最も格差のある国では1%の経済成長が0.6%の貧困削減にしかつながらないのに対して、最も平等な国では1%の経済成長が4.3%の貧困削減をもたらすそうである。実際、この20年の世界の貧困削減の3分の2は多くの市民が貧困ながら平等であった中国によってもたらされている。198084%だった中国の貧困率はなんと現在10%にまで改善された。

 問題は平等な社会は自然には現出しないことである。逆に、経済の自由化は確実に格差を広げることをこの間の事実は証明してきた。The Economist誌もいうように、これからの貧困削減は、従来に比してより困難となる。中国のような平等社会が少ないことと、貧困を脱しやすい集団(新興国)から改善が見られたわけだから、残された地域の状況はさらに厳しいことがあげられる。今後は南アジアやアフリカといった、格差の著しい地域での改善が求められる。より一層の政策的対応が必要となってくる。単に成長を促せばよいのではなく、人為的に平等をもたらす社会政策や貧困対策がより重要な意味を持ってくるということとなる。援助のあり方さえも抜本的な見直しを迫られるかもしれない。

そもそも1日1.25ドルという絶対的貧困基準は妥当か。生活を最低限維持できる水準を達成することは非常に大切な事である。しかし、社会全体の所得・物価水準が上がれば1.25ドルという水準の意味も薄れてくる。極端な例をひけば、米国で1.25ドル以下で暮らす人はほとんどいない。米国政府による貧困基準は一家族4人で22, 300ドル(223万円)年収があるかどうか(2010年)。11.25ドルという水準を大いに超えながらも当局統計による基準に満たない「貧困層」は約4600万人(国民の14%!)もいるのである。途上国においても、程度の差はあれ1.25ドル水準を超えながら十分な生活条件を得ていない人々は沢山いる。つまり1.25 ドル水準を達成することは一つの目標である半面、それが達成されたからと言って「貧困が解決した」ことにはならないことを銘記すべきである。

 もう一つの問題は所得以外の側面への注意である。人々の生活は所得のみで評価することはできない。人間は社会的存在であるので、飲み食いができればいいというわけではない。社会の一員としての十分な参加を出来ているかどうかが重要となる。仕事を持ち働くだけでなく、社会的な活動にかかわれているか、学ぶ機会や生活を快適に送る条件があるのかどうか、などが求められる。生活もままならない深刻な事態にある人々が、そうした社会的条件の実現を求めるのは贅沢だという反論が出るかもしれない。しかし、いくら生活の苦しい人々であっても、人と話をし、歌も唄い、冗談もいう。喜怒哀楽を持っている点では先進国の人間と同様である。さらにグローバル化によって我々は、情報と価値観の共有を国境や地域を超えて即時的に行う時代に生きている。携帯電話や情報技術などは先進国・途上国問わずに同時に普及する。先進国で享受されている生活の快適さを多くの途上国の人々は知っているし、彼らがそれを望んではいけない理由はない。市場や経済を統合し統一基準・価値をもちこみながら、生活環境に関しては絶対的な格差と壁を設けるというのは先進国の傲慢にすぎない。

 もちろん、社会経済条件が違うわけだから、すぐに途上国の状態が先進国のようになるわけではないし、その可能性も低い。しかし、行動目標たる「規範」としてダブルスタンダードを設定することがはたして公正かどうかは考えてみる必要があるだろう。

 「貧困」は往々にして目に見える数値で表現されるため、客観的状態のようにとらえられがちだ。しかし、それは錯覚である。「貧困」とはその実、社会的構造、国際関係に組み込まれたイデオロギーであるという視点を忘れてはならない。

 そのうえで、「貧困」を世界からなくし、昔こんなものがあったのだと、来館者を驚かせるような博物館の展示物にしたいものである。

 

2013.8