フェアトレード製品は高い、と言われる。確かにコーヒー豆200グラムが一般に500円位で売られているところ、フェアトレードコーヒーとなると同量でおおよそ700円から800円。確かに高い。

問題は、高いから消費者が買わないか、製品が売れないか、ということ。

 

 価格が消費者にとって買うかどうかの重要な判断基準であることは間違いない。

同じものであれば高いものよりも安いものを選ぶのは当然である。

しかし消費者がいつも安いものを選択するかといえば、そうとも言えない。

むしろ、あまりに安いと、商品に問題があるのではないか、食品であればどんな工程で作られているかわからない、と逆に警戒心が働き、敬遠することもある。

反対に、高いものであれば、きっとそれなりの品質であろう、丁寧に生産されているのだろう、と勝手に評価を与えて進んで買おうとする。ここでは安いから買うのではなく、高いから買うという原理が働く。

 

 消費者はいつも、安い高いという客観的な基準でモノを買う合理的な存在である…、か。

例えば、バーゲンで服、靴が通常価格の3割引き、5割引きとなれば、他人に渡すまいと商品をくしゃんくしゃんにしてまでも買い込む。

ゲットした直後は安く良い買い物をしたと満足するが、いざ家に帰って着用してみると、買った時の印象と違う、なんだか自分には合わない、という全くもって勝手な理由で使用拒否。

箪笥の肥しとなる気の毒な商品が多々発生する。

そうしてみるとバーゲンで安く手に入れようという「合理的な判断」が、結果的には一度も使わない箪笥の肥しにおカネをかけるという「非合理的な結末」を生むことになる。

しかも、冷静に考えればこうした結末は誰しも経験上予想できることである。

にもかかわらず、“バーゲン”と聞くと、ショッピング欲が身をもたげ同じことを繰り返す。

大根10円、20円の安さにこだわる同じ人が、バーゲンで何千円という無駄金を使っていることは珍しくない。

ここで消費者はショッピングをするという行為そのものに喜びを見出しており、商品そのものにではなく人と競って商品を手に入れる「スリル」と、手に入れたのちの「達成感」に数千円を支払っていることになる。

おカネの使い方としては合理的かどうかは疑わしい。実は消費者はこのように金銭基準からしたら頗る非合理的な行動を頻繁にしているのである。

 

 あるいはその人のおかれた状況によっても財布の開き具合は変わる。

自分がハッピーな時には普段買わないような贅沢なもの、つまり高いものをよろこんで買ったりもする。

例えば結婚式では、新郎新婦が参加者へのお喜びのおすそわけとして、実用品としてはいささか使い勝手の悪い(失礼!)調度品、工芸品を引き出物として購買する。

「一生に一度のお慶びですから」「こんなところで経費を削っては験が悪い」などといった婚礼場担当者の口車に乗せられ、新郎新婦は喜んで財布を開く。

あるいは、酔っ払いは大抵気が大きくなっているから財布の開きもよい。

「今日は俺が持つから」「細かいことは気にするな」などといって瞬時のお大尽気分、先輩気分を味わうために大枚をはたく。

あとさきの支出算段は忘却のかなた。いずれにしても賢い「合理的な消費者」も状況と気分によってはしばしば非合理的経済人と化すのである。

 

 そもそも人はなぜモノを買うのか。

衣類であれば、暑さ寒さをしのぐ、肌身を隠すといった、そのモノが持っている役割(「使用価値」とか「機能」とかいう人もいる)を実現しそれが与える便益を享受するために買う。

しかしそれだけであれば、作りにもデザインにも意を払う必要は全くない。

しかし、わがままな人間諸君は、周りのみんなと同じようでありたいと思う反面、私は他の人とは違うのよ、と自己主張をどこかでしないと気が済まない。

そうすると、衣服は、単に暑さ寒さをしのぐだけでなく、着る人の個性を他者に知らしめる役割を担わされる。衣服にひらひらがついたり、切れ込みができたり、色やデザインが施されたりする所以である。

当然のこと、意匠を凝らしたものは暑さ寒さをしのぐだけの見栄えの良くない商品に比べたら、値段が高くなる。

消費者はそのひらひらや色が、他人とは違う自分らしさをひきたててくれるであろうと予想して、高いおカネを喜んで払うのである。

つまりここでは暑さ寒さを防ぐ便益ではなく、自分を(おそらく)ひきたてることへの「期待」におカネを出費しているわけである。

 

 他人と違うだけでは十分ではない。

人が評価するもので自分をひきたてなくてはならない。

たとえば、宝石の指輪。宝石は美しいかもしれない。

しかし、見方によってはたかが「石ころ」である。

石ころがなぜ高いかといえば、光り輝き美しいだけでなく、滅多に掘り出されることがなく、逆に労力人手をかけないと入手できないからである。

誰でもが手に入れられるわけではないから、多くの人々が評価をして高い値がつく。単に美しい、単に少ないというだけでは不十分で、「人々が評価」し、さらにそれが市場を通じで取引きされる。

多くの人がおカネを出してでも入手したいと思いこと、つまり市場に評価をされることがみそである。小生が勝手にこの世で最も美しいと思っている「朝霜おきたるクモの巣の輝き」などではお話になったものではない。

 

 人々が高い評価を与えているから、それを身につけた人には羨望のまなざしが集まる。

人が褒めそやせばそれを身につけた者は自身の人間的等級や品格が上がったような錯覚に陥る。

だから、高いお金を払うのである。この場合は「社会的羨望」を大枚で買っていることになる。

しかし宝石が所詮たかの「石ころ」である事実には変わりはない。

問題は人々の頭から「たかの石ころ」感を払拭することである。

日本でダイヤが昨今のように珍重されるようになったのは1970年代以降というから、せいぜいこの50年である。

それまでは婚約してダイヤを贈ったり一般人が大枚はたいてダイヤを購入するなどという慣習や市場は成立していなかった。

社会の大勢の人々が持つ価値観、大金をはたいて買う価値のある対象商品は、時代によって社会によって変わるのだ。

自然に変わるのではなく、生産と市場と消費の関係の中で変えられていくのである。

歴史を振り返れば以前は取引の対象として考えられもしなかった多くのものが、昨今では当然のことのように市場でやり取りされてきている。

何の価値もなかったものが商品化され市場が成立し経済構造そのものを支配していく過程を「大転換」Great Transformationと呼んだ人もいる。

最近の面白い例は「空気の売買」が「排出権取引」というかたちで成立してしまっていることだろうか。

 

 こうして考えてくると、消費者は合理的側面と非合理的側面をないまぜに持ち合わせて消費行動をしているし、消費の判断基準も世の中の価値観の変遷とともに変わっていくということが判明する。

人はおカネと引き換えに何を買っているのか。

商品の持つ機能か、購買行為自体のスリルか、商品を持つことによる他人からの羨望か

 

 フェアトレード製品は一般に高いかもしれない。

しかし、消費者の行動や市場のあり方を掘り下げて考えればいろんなチャンスはまだまだ眠っているのではないか。

さらにフェアトレード活動はフェアトレード製品を黙々と売っていればいいのではない。

消費者市民の心をえぐること、消費市場やモノの価値を根底から組み直すことにこそ、その醍醐味があるのではないか。

フェアトレードに関わる烈士諸子、「大転換」の一端を担いたる矜持や持つべし。

 

2013.6